追憶の路面電車

2005年3月

追憶の路面電車

岐阜市内を走る名鉄路面電車

岐阜の路面電車が廃止になるという話を聞いて、始発の新幹線に乗った。ラストランまであと何日と迫った最後のチャンスである。東京は快晴であったが、名古屋駅に降り立つと惜別の雨が降り始めた。10年ぶりの故郷は暗く湿っぽい雰囲気に包まれていた。
名鉄電車に乗って岐阜までは30分。地下の駅にやって来た列車をみて、ずいぶんモダンになった思う。私が小さい頃の名鉄電車といったら、おもちゃ箱から取り出したような様々な形と種類の車両が(つまり旧式ということなのだが)、いくつも繋がって走っていた。パノラマカーの後ろに昭和初期の頃をイメージさせるいかつい車両がくっついていたり、思い切り走ると壊れるのではないかと思うような、高いうなりを上げるモーターを搭載した電車が、「高速」なんていうサボをつけて100km以上で疾走したりしていた。ちなみに「高速」とはそういう種類である。確か、停車駅が少ない順に、特急、高速、急行、準急、普通となっていたと記憶している。特急は指定料金がかかるのだが、高速はかからない。運賃だけで乗車できるのに停車駅は特急とほとんど変わらない、お得な列車なのだ。岐阜に行くときは、必ず高速を狙って乗っていたように思う。ところが今日の列車はどうだろう。首都圏を走っても違和感のない綺麗なフォルムの車両には、カラーのデジタル方向幕が付いている。顧客サービスは向上しているようだが、なんとなく「名鉄らしくない」と感じてしまうのが自分でもおかしい。
岐阜に到着すると、さっそく駅前に路面電車がちょこんと待っていた。こちらも白を基調とした配色の新しい車両だ。早朝の町を抜けて、終点の黒野まで乗り通した。まだ早い時間帯なので乗客は少ないが、カメラを持った鉄道ファンが多い。写真を撮るためだろうか、三々五々途中駅で乗降がある。

黒野駅前の郵便ポストの横には真っ白いネコがいた

岐阜の路面電車にはたくさんの思い出がある。母の友人が長良北町近くに住んでおり、家族でよく遊びに行ったものだ。長良北町は当時、路面電車の終点であった。今日の路線に先立って廃止になっているので、もう乗ることができない路線である。細身の電車は繁華街を抜け、金華山の裾を曲がって、長良川に架かる大きな端を渡っていった。夜になると、木造の車内に橙色の電球が明るく灯り、車窓には鵜飼いの火が流れていたのが印象深い。
柳ヶ瀬で母と友人が女性特有の長い買い物をするのに耐えきれず、ひとりで電車に乗っても良いかと尋ねたことがある。母も面倒だったのだろうか、即OKの返事をもらえたので、嬉々として普段乗らない美濃町方面への列車に乗って、刃物の町、関まで行った。市内線と違ってどんどんと田舎になる車窓にわくわくしながら外を見ようとするのだが、美濃町線の電車(モ600形)は窓が高く、背の低かった私はずいぶん苦労した。
休日には谷汲山まで足を伸ばすこともあった。岐阜駅前から急行電車が出ており、それに乗ると乗り換えなしで谷汲まで行けたのだ。こちらは2両編成で、円い窓の付いた大正生まれのレトロな車両であった。路面電車にしては大型の列車で、乗り降りするときはステップが出てくる。忠節駅から先は、路面ではなく普通の線路になるので、普通のサイズの列車が乗り入れていたのだと思う。
黒野駅は、その谷汲山に行く途中の駅である。こちらも廃止によって終点になってしまったが、以前はこの先に、谷汲と揖斐まで線路が延びていた。雨は相変わらず降っていたが、西の空は雲が切れ始め、午後は天気が回復する兆しが伺えた。 駅の軒先には白い猫が、ずぶ濡れになりながら郵便ポストを守っている。そのすぐ横に廃止を知らせる看板。記念グッズを販売する駅員さん、写真を撮る私を含めたファン等が入り乱れ、かなりの賑わいである。
今日のうちに美濃町線にも乗りたいので、記念グッズ等を買って岐阜に戻る電車に乗る。せっかくなので、途中いくつかの駅で途中下車して散策。ぬかるんだ道に菜の花が咲いていた。その脇を路面電車が走っていく。もう車内は人で満員だ。
路面区間と軌道区間の切り換え点である忠節駅では懐かしい電車が側線に止まっているのを発見。赤いずんぐりとした車体の路面電車。私が乗っていた頃の電車である。残念ながら今日は動かないのかもしれない。

車庫で止まっていた懐かしい電車

岐阜駅まで戻り、今度は美濃町線に乗車する。単線区間がほとんどだからだろうか、列車の本数は美濃町線の方が圧倒的に少ない。ちょうど出てしまったばかりで、約1時間も列車がないので、途中の市ノ坪駅までは歩いていくことにした。市ノ坪駅には車庫があり、そこなら先ほどの忠節駅のように、懐かしい電車が止まっているかもしれないと思ったからだ。結果的にこれは大正解で、昔、谷汲まで乗った大正生まれの丸窓電車(モ510形)がお昼寝していた。もう走ることはないのかもしれないが、つい数日前には実際にお客さんを乗せて走っていたそうである。
車庫で様々な電車を眺めていると、ようやく電車が走ってきたので、小学生の時の大冒険の地、関まで行ってみることにした。下芥見(しもあくたみ)駅を過ぎると、平行していた車道を離れて、まるで昭和初期の頃ような風景が展開する。やがて新関駅に到着。空も晴れて、春の日差しがまぶしい。少し町を歩いてから帰りの便に乗る。
帰りは日野橋で徹明町行きの電車に乗り換える。美濃町線は、岐阜駅始発と徹明町(繁華街の柳ヶ瀬)始発の二つの経路があり、それぞれの電車に日野橋駅で乗り換えることができる。ここから途中の競輪場前駅までの区間は、2台の列車がちょっとだけ間隔を空けて続けて走るという珍しい運転方式なのだ。他にこういう方式があるのかどうかは不明だが、珍しい方式で最後まで運転していたということで、沿線には見送る鉄道ファンも一段と多くなる。
関からのんびりと1時間ほどかけて、終着徹明町に到着。追憶の路面電車の永遠の終着駅である。

変わりゆく鉄道、人、街

レトロな運転席だが現役だ

徹明町で降りてみて、ふと気がついたことがあった。町が変わってしまっているのだ。過去とのギャップに、一瞬ここが本当にあの柳ヶ瀬だろうかと疑ってしまった。人が少ない。休日の午後だというのに、繁華街を歩く人の数は、私の記憶の中のそれを遙かに下回っている。ひとりで電車に乗っても良いかと聞いた頃の柳ヶ瀬は、迷子にならないように必死になるほどの人混みであった。呼び込みの声、人々の喧噪。ごみごみとしていたが、活気がある繁華街であった。
路面電車が消えていく理由がなんとなく理解できた。沿線人口の低減、モータリゼーション、交通機関の競合、収支等、いろいろと言われるが、きっとどれも違うと思う。ライフスタイルの変化に伴う町の変貌。人は家族で中心部の繁華街に向かうことをやめ、少人数の核家族で車に乗って、郊外の離れた大型店舗を巡るようになった。車と電車のどちらが便利かということではなく、郊外の大型店舗を巡る交通機関としては自家用車が最適であるということだ。列車は線路を離れられない。その周辺の人々の動線が変わったとき、鉄道の使命は失われる運命にあったのだろう。
いま、首都圏では、毎日何万人という人が通勤電車に乗って移動している。しかし、それは本当に快適だろうか。大渋滞に巻き込まれて観光に行くことが、本当に楽しいだろうか。そんな思いをして通勤や行楽をしなければならない社会制度の時代は、いつまで続くのであろうか。
岐阜駅まで歩く私を、車や路面電車が追い越していく。まだ滞在して観光を楽しむことができる時間であったけれど、名古屋に戻る列車に乗った。そう、人は常に変わっていく。その現場をもうひとつ見るために。

リニモから眺める愛・地球博の会場

日がやや西に傾く時刻。猿投グリーンロードの八草インター近く。路面電車とは対照的なリニアモーターカーの駅ができていた。
リニモ。名古屋市東部丘陵地区を走るできたばかりの新線である。沿線のために作られたというよりも、今年開催されている「愛・地球博」の交通網整備で建築された路線だ。路面電車もリニモも新旧の差はあるが、人の流れを作るために生まれたという意味では同じである。
八草は、以前は人の気配が少ない山間部であった。しかし、いまは大きく開けている。ここにJRの10両編成の列車がくること自体が面白い。八草には愛知環状鉄道という鉄道が走っている。その前身は廃止された国鉄の岡多線である。岡多線時代は八草までは線路がなく、岡崎から豊田までであった、廃止の後を引き継いだ愛知環状鉄道が残りの豊田-高蔵寺間を建設、開通させ、そのときに八草駅は誕生した。愛知環状鉄道は全国でも珍しい、(国鉄廃止線を引き継いだ鉄道の中では)黒字経営路線であるらしい。国鉄が見限った路線が黒字になり、万博の中心地になり、そこにJRの列車が走ってくるのだ。交通と人の流れの変化は、こんなにもドラマチックで激しいものなのだと、今日一日で気がつかされた。

リニモはとても静かに走る。わずかだが空中に浮上して走るのだから、騒音と揺れを抑えられるのだ。この方式もまた、私が小学生のときに行われたつくば万博で展示物として披露されたものである。ついに実用化されたかという気持ちと、いや実はこれも今回の万博の展示物なのではないかという気持ちで半々である。
万博会場駅で、乗客は私以外の全員が入れ替わる。一気にぎゅうぎゅうの満員になって、そのまま終点の藤が丘へ。
藤が丘駅のある名古屋市名東区が私の故郷である。生まれてから高校を卒業するまで、ずっとこの町に住んでいた。リニモの窓からは、ずいぶんと発展した町並が流れていく。初めて自転車を買ってもらった頃、うれしくて青少年公園まで片道8Kmの道のりを往復して、帰宅が遅くなり怒られた。その道が、いまリニモの車窓に流れる街路であり、少年の私にとって世界の果てだった青少年公園こそが愛・地球博の万博会場である。