青函トンネル大特集!

2005~06年

本州と北海道を結ぶ長大トンネル

青函トンネル青森側入口

旅行には「観光」というイメージが強い。よい景色を眺め、温泉に入って、おいしいものを食べてゆっくりとした時間を過ごす。旅の醍醐味でもあるが、それだけが旅行ではない。小学校の教科書で初めて読んだ紀行文には「旅は見聞を広める」と書かれてあった。この言葉は両親や先生にも言われた記憶がある。
見知らぬ土地を訪れ、風習を知り、見たこともないことを体験、体感する。世界には驚きと感動、知識と知恵が詰まっている。列車に乗って都会を離れていくと、徐々に風景が変わる。行く先の地方によって、同じ日本でも屋根瓦の形が違う、樹木や作物が違う、話されている言葉が違う、見たこともないものが立っている。後で調べたり、その時々で聞いたりして、それが何であるか、なぜなのかがわかったとき、とても充足した気持ちになれる。これも旅行の楽しみではないだろうか。
今回の旅行先は通常の観光地ではない。青函トンネル。本州と北海道を結ぶ世界一長いトンネル(2007年3月現在)には壮大なドラマがある。旅行記というよりは社会見学に近いかもしれないが、このトンネルを造ってくれた方々への感謝の思いを込めてまとめてみた。

※現在では旅行時と状況が変わっている施設や利用できない施設も含まれています。海底駅などは廃止になり見学ができません。あらかじめご了承ください。

青函トンネルは本州と北海道を結ぶ海底トンネルである。おそらく名前くらいは誰でも聞いたことがあるのではないかと思う。トンネルの長さは53.85Km。2007年10月現在で世界一長いトンネルである(スイスのトンネルが営業を開始すると世界2位になります)。トンネルそのものの話題に入る前に、このようなトンネルがどうして掘られることになったのか、その歴史を辿ってみよう。

青函トンネルができる前、本州と北海道は海路で結ばれていた。青函連絡船である。青函連絡船については、当時の船がそのまま資料館になっているメモリアルシップで体験することができる。メモリアルシップは青森と函館の両港にあり、青森では八甲田丸、函館では摩周丸に実際に乗船することができる。

青森駅に展示されている青函連絡船八甲田丸

まずは青森の八甲田丸に乗って青函連絡船の旅に出よう。東京から東北新幹線で八戸へ、さらに特急に乗って青森へ向かう。私が訪れた日はちょうど秋の低気圧が通過するシーズンで暴風雨。仙台駅を過ぎると車窓左側の車庫に、前夜札幌を発った寝台特急「北斗星2号」が運転中止になり留置されているのが見えた。新幹線も徐行区間が多くなり、盛岡駅では同じく「北斗星4号」が運転打ち切りになっていた。
なんとか八戸駅に到着するも、そこから先の在来線は土砂の流入によって運転見合わせとなってしまっている。今日は諦めて東京に戻ろうと一度改札を出ると、駅員さんが「青森からの特急が到着しましたので折り返し電車を出します」と言う。怖いもの見たさもあり、ついこの列車に乗ってしまった。大幅に遅れて発車した「白鳥号」は時速25Kmでのろのろと進んでいく。八戸~青森間のほぼ全線に渡って徐行指令が出ているため、まるで自転車で進んでいるかのような超鈍行旅行である。2時間近くかけて大荒れの海が見えてくると浅虫温泉駅だ。乗客は誰一人知らなかったが、まさにこの瞬間、浅虫温泉駅の雨量計は限界値を突破しようとしていたのだ。
八甲田丸は青森駅のすぐ先の岸壁に係留されている。昔の青森駅はここで線路と船が桟橋でつながっていて、貨車や列車をそのまま船に乗せて北海道へ輸送できるようになっていた。だが今日は横殴りの雨にかき消され、ホームからその姿を見ることも難しい。

雨量が規定値を超えたため、私の乗ってきた特急列車を最後に、接続する東北本線、奥羽本線、津軽海峡線のすべての線路が運転中止となり、青森はいまや完全に孤立した陸の孤島と化してしまっていた。駅舎内は多くの旅行客でごった返している。青森を離れるには陸路しか残されていないが、遠方まで行くバスはJRの八戸駅行きのみがわずか数便あるだけで、代替バスの手配もできないと繰り返しアナウンスされていた。
駅で海峡ラーメンを食べて腹ごしらえをし、傘を真横に差して岸壁まで歩く。八甲田丸はあちこちが水漏れし船も大きく揺れ続けるという、まるでタイタニック号にでも乗っているかのような状態であった。見学者の数はわずか数人である。
実は青函トンネル建設のきっかけも台風によるものである。詳細は函館での摩周丸で後述するので、まずはせっかくたどり着いた八甲田丸を見学してみることにする。
船の中はとてもきれいに整備されており充実した展示品が楽しめる。映像が飛び出すように見える3Dシアター等の設備もあり、ゆっくりと見て回るとそれなりにボリュームもある。

青函トンネルの歴史

展示されている歴代の青函連絡船

青函連絡船は明治41年、青森~函館間に国鉄によって運行が開始された。所要時間は約4時間。当時としては極めて高速な連絡船であった。その後、客貨船、貨物船が次々と増備され、北海道への輸送の大動脈を担うことになっていく。大正3年には貨物を車両のまま輸送する貨物航送が開始され、大正14年にはこれが本格化し、桟橋で船とレールのをつなぎ、列車をそのまま船に乗せて輸送する車両航送が青函連絡船の名物風景となっていく。
第2次世界大戦時にはほとんどの船が破壊され壊滅状態に陥るが、戦後復興し、1970年代前半には貨物、旅客ともに最盛期を迎える。船も近代化され、1964年には「津軽丸」に代表される「海の女王型」と呼ばれる大型近代船舶が登場し、所要時間も3時間50分になる。
しかし70年代後半からは航空機や民間フェリーが普及し、本州~北海道の輸送手段は大きな変貌の時を迎えた。以後は徐々に貨物数、旅客数ともに現象を辿り、1988年3月青函トンネルへとその使命を受け継いで、80年にも及んだ航海の歴史に幕を下ろすこととなった。

私が学生だった頃は、青函連絡船と言えば北海道へ行くための遠い憧れの航路であったと同時に乗るのが困難な航路でもあった。津軽海峡という名の「しょっぱい川」を渡って、多くの住民と旅行者を運搬した。北島三郎氏が唄う名曲「函館の女」の歌詞も青函連絡船内で作られたという。そんな船も今は役割を終えて、ひっそりと停泊している。

車両甲板に列車が展示されている

八甲田丸の船内には、当時の国鉄の客室や設備をはじめとして、数々のパネルや展示物、模型、ゲーム等で、これら青函連絡船の歴史が大変よく整理されている。順路に沿って進んでいくと、やがて操舵室に入ることができる。気分は船長そのものだ。今日は暴風雨のため、視界はほとんどなく船も大きく揺れている。航海の緊張が味わえる操舵室になってしまっているが、晴れた日なら抜群の眺望が楽しめるだろう。
操舵室の後は車両甲板を見学する。車両甲板とは船の中に列車を詰め込むためのスペースである。フェリーでは車を積むのだが、青函連絡船では国鉄の列車や貨車を積み込むため、船の中にもレールが敷かれているのだ。函館側の「摩周丸」では車両甲板の展示はないため、現在では八甲田丸だけで見られる貴重な史料だ。狭い階段を下りていくと、突然空間が広がり、列車が私たちを待ち構えていた。展示されている列車は、当時北海道の国鉄で活躍していた最新鋭のディーゼル特急車両キハ82系や貨車、ディーゼル機関車などだ。列車はかなり大きいが、それが何両もすっぽりと入ってしまう空間に、船という乗り物の大きさがよくわかる。
車両甲板の次は機関室である。これも八甲田丸だけが見学可能な施設である。巨大なエンジンと複雑な機械の管が織りなす光景には、まるで産業革命時代のような人間のあくなき力と挑戦欲を感じることができた。

函館港に係留されている摩周丸

さて、ではいよいよ青函トンネルのきっかけとなった事件の記録を見てみよう。場所は北海道の函館に飛ぶ。
こちらも函館駅のすぐ横に青函連絡船メモリアルシップ「摩周丸」が横付けされている。八甲田丸と比較すると、歴史や観光客の憩いの場を主体とした展示内容で、史料や眺めの良い休憩スペース、制服の展示や組紐の結び方など、面白い展示品が多い。特に船の前面の展望休憩スペースからは真正面に函館山が見え絶景である。
展示室に入ると最初の壁面に大きく取り扱われているのが洞爺丸事故である。洞爺丸事故は1954年9月26日に起きた海難事故で、急激に移動速度を落とした台風により、洞爺丸をはじめとする青函連絡船5隻が沈没、1400名以上もの犠牲者出した。戦争を除けば、世界でも第3位という未曾有の海難事故である。この事故により、連絡船の安全がいっそう強化されるとともに、天候に左右されない安全な交通路の確保が計画が一気に具体化することとなった。それが青函トンネルである。

青函トンネルの構想自体は、軍事目的として太平洋戦争以前から存在していた。当初は下北半島の大間町と北海道の戸井町(現函館市)を結ぶルート(東ルート)と、津軽半島の三厩村(現外ヶ浜町)と北海道の福島町を結ぶルート(西ルート)の2本が検討された。陸上の調査の段階では距離が短い東ルートが有力視されたが、実際に海底の調査が行われると、海底の深さや掘削に適さない地質であること等が判明し、最終的に津軽半島を経由する西ルートが採択された。
ルート決定後、1961年に北海道吉岡から斜坑の掘削を開始して着工。開業の1988年まで27年間にも渡る大事業はスタートした。工事には当時の最先端の技術を持ったトンネル堀たちが集結し、人類史上かつてない大工事に挑むことになった。1967年先進導抗の掘削開始、1971年本抗の起工を経て、1985年に本抗が貫通。1988年3月13日に開業するまでの数々の異常出水や難工事を超えて、ついに世界最長の海底トンネルが完成したのである。

摩周丸にも展示されている歴代の青函連絡船

青函トンネルは鉄道トンネルであるため、通行できるのは鉄道車両だけである。当初は在来線の規格で設計されていたが、途中で整備新幹線計画を受け、北海道新幹線の開通を見越して新幹線規格での設計に改められている。しかし、現在は新幹線がまだ開業していないため、在来線だけが通過するトンネルとなっている。27年間という工期の間に、時代の移り変わりと様々な政治的な影響を受け開業に至った青函トンネルの、このような経緯も歴史のひとつである。
開業当初は国鉄の分離民営化直後の時期であり、莫大な工事費の回収が難しいとされたことから、青函トンネルの不要論も激しく飛び交っていた。なかなかに厳しい状況の中での開業であった。しかし開通後は当初の目標の通り、天候に左右されにくい安定した物流の確保に絶大な力を発揮し、特に貨物輸送において本州と北海道の大動脈となっていった。現在も、青函トンネルを通過する列車の主流は貨物列車であり、日本の物流をしっかりと支える重要な役割を担っている。

列車で青函トンネルを通る

津軽海峡線を走る特急白鳥

それでは実際に青函トンネルを通ってみよう。青函トンネルを通過する定期旅客列車は、2007年10月現在、すべて在来線の特急列車である。普通列車は1本も通らないため、この区間(蟹田駅~木古内駅)だけを乗車する場合には特急料金を支払わなくてもよく、普通運賃だけで乗車できる特別な区間になっている。ただし、蟹田駅か木古内駅を通り過ぎて、それ以前やそれ以降まで乗車してしまうと、全区間分の特急料金が必要になるので注意したい。(実際に利用するには蟹田、津軽今別のうちいずれかと、知内、木古内のうちいずれかの駅に両方停車する特急に乗らなくてはならない)
青函トンネルを通過する列車は、昼間の特急と夜間の寝台特急に分かれる。東京や大阪、または札幌から直通するには寝台特急が便利だが、いずれも青函トンネルを夜間に通過してしまうので、景色を楽しむには昼間の特急である「白鳥号」または「スーパー白鳥号」に乗るのがおすすめだ。本数もほぼ1~2時間に1本程度は走っている。

青函トンネルのある線路は津軽海峡線と呼ばれている。これは愛称で、正式には青森側から、津軽線の一部、海峡線、江差線の一部、函館本線の一部の4つの路線から構成されている。津軽線だけがJR東日本の路線で、ほかは青函トンネル自体を含めてすべてJR北海道の路線である。
津軽線や江差線はもともとローカル線だった線路を電化、改良しただけなので、現在でも単線で列車の行き違いが頻繁に行われる上、右に左に激しくカーブしながら走っていく。対して海峡線は新幹線の規格で設計されているため全線が複線になっており、高架とトンネルの連続でカーブも非常に緩やかで、揺れが少なく高速走行が可能になっている。函館本線は、五稜郭~函館間の最後の一駅だけで、もともと複線の函館本線をここだけ電化して利用している。

木古内駅に到着する特急スーパー白鳥

では青森駅から特急スーパー白鳥号に乗って青函トンネルを通過し、北海道へと旅行してみよう。青森駅を出発した列車は進行右側に急カーブを繰り返しながら、津軽線へと入っていく。八戸方向からそのまま乗ってきた人は、青森駅がスイッチバックになっている関係で、列車の進行方向が反転する。スイッチバックになっている理由は青函連絡船があったからだ。昔はここでそのままレールが桟橋に停まった連絡船へと続いていた。港につっこむ形で終着していたのだ。
最初はのどかな田園風景の中を津軽半島を北進する。津軽線内は元ローカル線のため単線でカーブもきつい。列車によっては停車駅でないところでも停まって、反対列車をやり過ごしたりしながら進んでいく。やがて右側に青い海原が姿を現す。陸奥湾である。対岸には下北半島や北海道が見渡せる、ここが津軽海峡だ。
海を眺めていると程なく蟹田駅に到着だ。青森から約30分。時刻表では蟹田駅に停車しない列車でも、乗務員の交代(JR東日本の乗務員とJR北海道の乗務員の交代)があるため、実際にはほぼ必ず停車する。

スーパー白鳥の車内ではトンネル内の走行位置が電光掲示板で表示される

青函トンネルの通過を体験したいという人は、ここらへんでそろそろ起きて準備をした方がよいだろう。蟹田を発車すると、次の駅が中小国だ。この駅はJR東日本とJR北海道の境界駅だが、本当に小さな無人駅で、青森→函館の場合は進行方向左側に小さなホームがちょこんとあるだけなので見落とす場合も多い。しかし青函トンネルに入る瞬間を味わうためには重要なランドマークになる駅なので、できれば確認しておきたい。
中小国を通過すると、列車は速度を落として左右に揺れながらポイントを通過する。新中小国信号所に到着だ。新中小国信号所は田んぼの真ん中に左右何本かのレールがあり、列車の行き違いができるようになっている場所である。ここでJR北海道の線路に入ったことになる。今まで走ってきた津軽線が左に細々と分岐していき、列車は右に緩やかにカーブしながら高架線を上っていく。
すぐに最初のトンネルに入るが、ここからが高規格で作られた海峡線の区間だ。複線になり、線路の状態も良くなるので列車の速度が上がる。また、揺れが一気に少なくなるのが体感できる。海峡線の区間は新幹線がすぐにでも走行できるように設計されているが、現在はそこに在来線の線路だけを敷いて走っている。在来線の列車からするとオーバースペックなほど状態の良い線路を走行するわけだ。
いよいよ青函トンネルが近づいてきた。青函トンネルの前後には、本州側、北海道側ともにいくつかのトンネルが連続している。そのため、いつ青函トンネルに入るのかが非常にわかりにくい。中にはせっかく楽しみにしていたのに、あまりにトンネルが多くて飽きて眠ってしまい決定的瞬間を見逃したという人や、知らない間に青函トンネルに入ってしまってがっかりしたという人もいる。昼間の特急である白鳥号やスーパー白鳥号では、各車両についている電光掲示板に「まもなく青函トンネルに入ります」という案内が表示されるようになっている(特にスーパー白鳥号では前後のトンネルの名称等も含めて、かなり詳細な案内が表示される)が、夜間の寝台特急ではそういう案内はない。そこで誰でも確信できる青函トンネルの入り方を紹介しよう。

JR北海道の駅で唯一本州に位置する津軽今別駅

まず青森側から入る場合。新中小国信号所は一番見分けやすいので、ここからカウントを開始する。新中小国信号所を過ぎると高架になり右にカーブして最初のトンネルに入る。ここから通過したトンネルの数を数えていくこと。
トンネルを2個通過すると(2個目のトンネルはかなり長いので寝てしまわないように注意)、小さな駅がある。津軽今別駅だ。本州側最後の駅で、JR北海道の駅の中では唯一本州にある駅である。この駅を通過したら(津軽今別に停車する列車に乗った場合にはここから数え始めても良い)、またトンネルを数えよう。津軽今別駅を通過してから8個目のトンネルが青函トンネルである。まとめると、新中小国信号所→(トンネル2個通過)→津軽今別駅→(トンネル7個通過)→青函トンネル、である。
青函トンネルの入り口(入ってすぐのところ)の下には、青い蛍光灯が何本かついているので、それで青函トンネルを見分けることができる。また、ほとんどの列車が青函トンネルに入るときには汽笛を鳴らしてくれるようである。
青函トンネルに入ると、あとは約40分ほどずっと暗闇のままである。トンネル内は気温と湿度が年間を通してほぼ一定なので、冬なら車内の温度がぐっと上昇する(トンネル内は20度ほどになる)。そのため、暖房から通風にエアコンが切り替わったりする。また窓ガラスが曇ったり、水滴がついたりすることもある。

青函トンネルの最深部には緑と青のライトが点いている

ちなみに青函トンネルの中を走行している時は、とてもうるさい。轟音がするという表現が近いほどなので、敏感な人は耳栓などの何らかの対策をおすすめする。特に寝台列車では起きてしまうことがあるので要注意である。
10分ほど走るとで蛍光灯がいくつも並んでいる場所を通過する。ここが竜飛海底駅である。この駅から先、吉岡海底駅までの間が本当に海底部分を走行する区間だ。ちょうどこの駅の位置が地上では波打ち際になっている。
さらに10分ほど走ると、列車の足下に青と緑の蛍光灯がついている区間を通過する。蛍光灯の数が少なく一瞬で通過してしまうので、気をつけて見てほしい。ここが青函トンネルの最深部。海面下240mの地点だ。今あなたの頭上には約100mの海底の地面があり、その上に140mの厚さの津軽海峡の海水が広がっている。日本の鉄道で一番深い部分を通っているのだ。
また10分ほどすると、再び蛍光灯が並んだ区画を通過する。吉岡海底(臨時)駅。北海道側の海と陸の境界点である。ここからは出口を目指して、北海道の大地の下を走っていく。そして最後の10分の暗闇を通過すると突然光が差し込んでくる。ついに北海道に出たのだ。
北海道に出るとすぐに知内駅を通過する。そしてトンネルを8個通過すると木古内駅に到着だ。ここからはまたローカルの旅に戻る。江差線である。線路は単線に戻り、海岸線に沿って左右に何度もカーブする。車両もかなり揺れる。やがて車窓右手に函館山が見えてくると、五稜郭、そして終着函館はすぐそこだ。

今度は反対に北海道側から青函トンネルに入るまでを紹介しよう。木古内駅を出ると列車はすぐに高架の海峡線に入る。トンネルを8個抜けると少し開けた場所になり、知内駅を通過する(もちろん停車する列車もある)。知内駅を出発して次のトンネル(最初に入るトンネル)が青函トンネルである。こちらの方がわかりやすい。
正確には、知内駅を出て最初に入るトンネルは青函トンネルではなく、湯の里第一トンネルという長さ1.2Kmのトンネルであり、これに続いて非常に短いシェルターに覆われた区間(川を乗り越えている)を挟んで青函トンネルになるのだが、乗っている人にとっては併せて1本のトンネルのようにしか見えないし、車内案内でも最初のトンネルに入ったときに「青函トンネルに入りました」と表示されるので、そういう解釈で良いと思う。
こちらにも青い蛍光灯が足下についているので、それで判別することができる。木古内駅→(トンネル8個通過)→知内駅→青函トンネル(正確には湯の里第一トンネル)である。

吉岡海底駅を見学

吉岡海底駅の駅名標

青函トンネルの入口は青森県側であり、出口は北海道側である。これはそう定義されているからだ。しかし歴史上、青函トンネルを最初に掘り始めたのは、現実の青函トンネルの入口でも出口でもない、北海道の福島町吉岡である。津軽半島と対面した渡島半島の先に位置するこの小さな漁村(当時)。ここから海底に向かって斜坑を掘ることによって青函トンネルはスタートした。
現在の吉岡には青函トンネルの入口も出口もない。地中深く、海面との境界地点に吉岡海底駅があり、そこにわずかにその名を留めるのみである。だが今から40年以上も前に、この小さな集落の英断がなければ青函トンネルは開通していなかった。 吉岡は漁の村であることをやめ、トンネルの基地として一大変貌を遂げた。男性はトンネルを掘り、女性はそのサポート業に従事したという。一時は巨大な宿泊施設や工事現場があった吉岡も、今はまた元の静かに集落に戻っている。そして1日何本も遙か地面の下を駆け抜けていく列車を見守っているのだ。

この福島町吉岡に敬意を払って、トンネル見学は吉岡海底駅からはじめてみたい。そんな思いがあって吉岡海底駅に向かった。なお、2007年現在では吉岡海底駅は臨時駅となり、見学を含めて一般の乗客が降りることは全くできなくなっているので注意していただきたい。北海道新幹線の工事をするための基地となるからだという。いま吉岡は再び、北海道に希望を導く拠点となろうとしている。
私が吉岡海底駅を訪れたのは2005年の秋である。当時はまだ見学が中止になることも発表されておらず、見学者は極めて少数(私を含めて2人)だった。そのため、特別に普段は見学できない場所も案内していただいた。またそのときに、吉岡海底駅が見学中止になることをJR北海道の職員の方から伺った。静かな、普段の青函トンネルの様子が見られる貴重な機会に恵まれたことに感謝したい。
真っ暗な空間の中で列車は徐々に速度を落とす。やがてガタンと軽いショックを残してトンネルの中で停止する。吉岡海底駅に到着だ。青函トンネル内にある2つの海底駅はトンネル見学のための臨時駅で、降りるためには前日までの見学整理券の申し込みが必要である。
車掌さんがトンネル施設の職員と協力して、車掌室横のドアだけを手で引っ張って開けてくれる。「今日は2名です」と物好きな見学者を降ろすと、列車は瞬く間に闇の中に消えていった。

どこまでも続くトンネル内の線路

海底駅のホームは幅がほとんどない。もともとは人を降ろすための駅ではなく、緊急時の避難施設なのである。ぴったりドアの位置にある横穴を通って、青函トンネルと平行している別のトンネルへと案内される。ここは作業抗というトンネルで、工事中は本抗に先行して掘られたトンネルだが、現在は青函トンネルの保守作業をするためのトンネルである。
トンネルの中に降りて、最初に感じることは気温が高いということである。湿度もかなりあり、じめっとする。まるで夏のジャングルの中にいるような感覚である。北海道の外は雪が積もっていたからギャップの大きさに驚いた。コートを着ていたが、すぐに脱がなくてはならないほどだ。ここでは他の荷物も預けて、これから約2時間、JR北海道の職員の方に案内されてトンネル内を見学する。
まずは先ほど私を乗せてきた列車が通った本抗(青函トンネル本体)を見学に行く。作業抗と本抗は海底駅のある位置では、何本かの小さな連絡トンネルでつながっていて、すぐに本抗に出られる。連絡トンネルの位置は、緊急時に新幹線の列車が停車した際に、ぴったりとドアの位置と重なるように設計されているとのこと。そのため今回のように見学の時には、在来線ではたった1カ所のドアしか開けないそうだ。
本抗はとても広い。トンネルという窮屈感は全くしない。高さは3階建てのビルがすっぽりと入るほどの大きさがあり、ゆるやかにカーブをしながら奥まで続いている。そう、青函トンネルは、実はまっすぐ掘られているのではなく、地質の良いところを選んで大きくS字を描くように海底を走っているのだ。

新幹線に備えて最初からレールがずれた状態で配置されている

ホームの端に立っていると肌に風を感じる。青函トンネル内では換気のため、常に一定の風(風速1m/s)がトンネル内に送り込まれいてる。風は本抗を流れるだけではなく、火災発生時に海底駅に避難した人が煙に巻かれないように、作業抗から本抗に向かっても流れ込んでいる。
本抗には海峡線のレールが通っている。上下で2本の線路が続いているが、スラブ軌道と呼ばれるコンクリートの枕木に直結する方式で固定されているため、地上の線路で見られるような砂利は一切撒かれていない。またコンクリートの枕木に対して、線路全体が外側にずれた状態で敷設されている。これは在来線のレールの幅が新幹線よりも狭いため、将来的に新幹線を通した際には、内側にもう1本レールを敷いて、3本のレールで、在来線と新幹線の両方を走らせることができるように設計されているからである。いま目の前にあるレールは、トンネルの入口付近から出口付近まで、約52Kmに渡ってずっと1本のレール(スーパーロングレール)である。トンネル内では通年の温度差がほとんどないからできる方式であるが、本州から北海道が本当に1本のレールでつながっていることに驚きを感じた。

吉岡海底駅を通過する函館行き特急白鳥

トンネルのスケールに感動しながらあたりを眺めていると、突然、ブーッ、ブーッとブザーが鳴り出した。緊急事態か!?と思いきや、列車が接近することを知らせる警報だという。列車が4Km先まで接近すると鳴り始め、2Km先で音がさらに大きくなる。やがて周囲がヘッドライトに照らし出されると、トンネルの中を特急白鳥号が走り去っていった。
ものすごい風圧がくるのではないかと身構えていたが、実際にはあまり感じない。駅のホームを電車が通過するときよりもずっと軽い感じで通り過ぎていった。これもトンネルの大きさのせいなのだろう。白鳥号は比較的ゆっくりした速度で通過していく。
青函トンネル内は中央部付近に向かって、両側から20Km以上もずっと長い一定率の勾配が続いている。坂の傾斜は一律12パーミル。1km進むと12mの高低差がつく傾斜である。とんでもなく急坂というわけではないのだが、これが20Km以上も連続しているとなると話は別である。一般的に坂道が20Km以上も続く地形など、日本の地上では存在しない。そういう場所を走れるように設計された列車はないのだ。
そのため、青函トンネルを走行する列車はすべてモーターを強化した特別な車両となっている。白鳥号はもともと国鉄時代の特急列車を改造した車両を利用している。最新型ではないため、長い上り坂をずっと走り続けて来たため、速度がゆっくりになっているのだ。意外なところで青函トンネルの過酷な状況を目の当たりにできた。

本坑から横に向かって通路が延びいてる

ちなみにこの傾斜であるが、新幹線が走った際に入口で時速200Km/hでトンネルに入った場合に、最終的にある程度の減速でトンネルを抜けられることと、トンネルの全長の距離の双方を考慮して計算された数値らしい。全部で何案かあった中から採用されたとのことである。
この他にも、全長が53.85Kmもあること、海底トンネルであって逃げ場が全くないことなどから、様々な特殊な設備が用意されている。例えば、トンネル内には数多くの熱源感知器が走行している列車に向けられて、函館の運転司令室で常時監視を行っている。万が一列車火災があった場合には、スプリンクラーで消火に当たると同時に、最寄りの避難所(吉岡海底駅か竜飛海底駅、または地上の駅)に列車を誘導する準備が整えられる。そのため見学コースはすべて禁煙である。もし隠れてたばこを吸ったとしたら、人間は見つからなくても火災報知器に発見されて、全列車がすべて停止してしまう仕組みになっている。過去に実際にそういう事例があったそうである。

トンネルの裏側に迫る

奥の通路はかなり広い

いったん作業抗にもどり先に進む。吉岡海底駅にはアトラクションとして、ドラえもん海底ワールドがあるため所々にドラえもんの旗が翻っている。作業抗は本抗よりも狭いと言っても十分な広さがあり、保守には自転車や専用の自動車が使用される。団体さんや自動車が通行しても何も問題もないほどの広さである。
やがて壁面一面に写真が貼られたゾーンに出る。これはトンネルが開通した際に募集した記念写真を壁画にしたものである。結婚式や同窓会の写真など、人々の思い出深い写真が褪せることなく海底に飾られている。
そしてその先には「青函トンネル 吉岡定点 海面下145m」と書かれた看板がある。これこそが吉岡海底駅の正式名称である。吉岡海底駅というのは便宜上の名前であって、本来の正式名は「吉岡定点」という。避難所として造られたトンネル内の施設のひとつだ。
これは後述の竜飛海底駅も同様であるが、吉岡海底駅が海面下145mなのに対して、竜飛海底駅は海面下140mで、5mだけ吉岡海底駅の方が低い位置にある。つまりこの駅(避難所)は日本で一番深い場所にある駅なのだ。

※吉岡駅の一番深い部分は海面下149.5m。
※現在では海底駅は廃止されているので東京の地下鉄大江戸線六本木駅が一番深い。駅全体ではなくホームだけであればJR上越線土合駅の地下ホームが一番深い。

海面下145m吉岡定点と書かれた看板

この先で急な下り坂を降りて、再び上る。我々が降りた青森方面行きホームの側には避難所はなく、設備はほとんどが函館方面行きホーム側にあるため、一度線路の下をくぐって反対側に移動したのだ。反対側にもホームと並んで作業抗が通っている。少し進むと見学施設があるゾーンに到着する。こちらが本来の避難所で、緊急時に使用できる避難施設、更衣室、トイレなどが揃っている。普段は見学に使用されるために、青函トンネルの様々な資料が展示され、解説を聞くことができるようになっている。
これらの場所はすべて監視カメラで函館の運転司令室から監視されている。いたずらしたり、たばこを吸ったりするとちゃんとばれる。また、ここからトンネルの壁面がコンクリートの吹きつけに変わる。今までは平らな壁面だったのだが、ここからはむき出しのトンネルという感じのごつごつした壁になる。トンネルを掘った後、壁面に鉄筋で補強をして、コンクリートを流し込んで強度を維持する、青函トンネルで編み出された工法だ。コンクリートの厚さは所々に書かれている数字で示されている。
展示スペースには、吉岡海底駅の模型、トンネルを掘った際のシールド(掘削機の歯)、工法の説明、トンネルの全容などが詳細に説明されており、見応えがある。ここから斜め方向に通路が延びており、脇には小川が流れている。川の水は温かく、観葉植物が育っていたりもする。トンネルの中に川があるというのは不思議な感じがするが、海底であるため常にわき出してくる水を排水しているため、至る所で水が流れているのだ。
海底トンネル内に水が流れていると不安になるが、大型の排水ポンプを使って常に排水しており、工事の時の最大出水量にも耐えられるほどの設備があるそうだ。ただ職員の方の説明では「実は耐用年数が来ていてそろそろ設備交換をしないとだめなんですよ。でもJR北海道にはお金がなくて、新幹線までは持たせようと努力しているのです・・」とのこと。これはオフレコですけどねと笑っていた。

ドラえもん海底ワールドの入口

通路を進むと、ドラえもん海底ワールドがある。入口はきれいなブラックライトのアートが描かれていて立派なテーマパークだ。あのドラえもんと、のび太くんやジャイアンたちがいる。彼らの家や町の模型などもあり、自動販売機にオレンジカードの売店、そして一般見学者も使用できる、日本で一番深い場所にあるトイレなんかもあるのだ。家族連れが多い日や、イベントの日にはここでアトラクションが開かれるのだが、今日は奇特な見学者が2名ということで特別に見学コース以外にの設備を見せていただけることになった。

吉岡海底駅の横取り基地。すぐ横を本線が通っている

服が汚れたり濡れてもかまわないか、危ないので十分注意してほしい等の、さらに特別な注意事項と説明があった後、ドラえもんワールドの裏側に回る。「関係者以外立ち入り禁止」と書かれたドアを開けて進むと、そこは横取り基地であった。
横取り基地とは青函トンネルの本線から斜め方向に分岐した空間で保守用車両の基地や、緊急時の列車待避場所として使われたりするスペースのことである。ドラえもん海底ワールドは横取り基地のスペースに設置されているのだ。
本抗との合流地点は青函トンネルの中で最も広い空間になっており、本線のトンネルと保守用スペースのトンネル2個分が大きく切り取られている。すぐ横には柵があり、向こう側は本線のレールが通っている。つまり本線レールと同じ位置に出てきたのだ。
幸運にも写真撮影を許可していただいたので、ぜひ見ていただきたい。本抗のトンネルが3階建てのビルがすっぽりと入る大きさなのだが、それ以上に大きな空間があることがわかる。

斜坑の入口

興奮冷めやらぬままドラえもん海底ワールドに戻った後、次は斜坑入口の見学である。こちらも通常時は立ち入り禁止区域だ。いったん資料館の場所まで戻り、さらにその先に進む。通路を遮っている大きな格子を鍵を使って開けると、その向こうには保守用自動車や自転車等がとめてあった。
行き当たりに分厚い鉄のドアがある。ここが斜坑への入口だ。斜坑は最初に掘られたトンネルで、地上からここまで急傾斜でまっすぐにつながっている。地上からの空気の流入と気圧差が生じるため、斜坑入口の空間は2枚の圧力隔壁のような巨大なドアで仕切られている。
職員の方がドアを開ける操作をすると、サイレンが鳴り響き、黄色い回転灯がくるくると明滅する。おまけに女性の無機質な声で「隔壁が開きます。ご注意ください」というようなアナウンスが流れる。まるでロボットアニメのワンシーンのようなものものしい光景だ。
この隔壁は向こう側とこちら側で同時に開いたり、操作することはできない。操作のための小さな窓を開いただけで、風が一気に流れ込んでくるのがわかるほどなので、両方一度に開いてしまうと危険だからだそうだ。2枚のドアの向こうには斜坑があり、地上まで細いトンネルが続いている。実際にここから地上に出られるのだが、ケーブルカーを使わない限りは145mの高低差を階段で歩いて登らなくてはならない。避難や保守作業も大変だ。

当時の工事の様子が展示されている

最後に資料スペースに戻って様々な展示品を見る。青函トンネルの解説パネルでは、実際の地図上にトンネルが通っているルートが示されており、青函トンネルが大きくS字を描いて通っていることがよくわかる。地質の良いところを選んで掘っていったからである。また、海底部分よりも地上部分のトンネルの長さの方が長いことも見て取れた。
反対側にはトンネル掘削機の実物と模型がある。何よりも驚いたのはシールド(掘削機の歯)の小ささである。最近は地下鉄の工事等でも大きなシールドマシンで一気にトンネルを掘っていくという。だが、世界最長のトンネルを掘りきったシールドは、予想していた大きさに比べてあまりにも心許ないものであった。ここにトンネルを掘られた方々の努力と技術開発のすごさを目の当たりにした。地下鉄を掘ったあの大きなシールド、このような貴重な経験を元に開発に成功したに違いないのだ。この機械で27年間でこのトンネルを掘り抜いたのかと思うとつくづく感心してしまった。
2時間という見学時間はあっという間に過ぎ、青森方面行きのホームに戻る時間がやってきた。来る前はトンネルの中に2時間もいて大丈夫なのかと思ったが、終わってみるとあっという間で、もっとよく見てみたいという気持ちだ。

やがてブザーが鳴り出し、闇の中からスーパー白鳥号が姿を現す。トンネルの中から突如乗ってくる珍客に乗客たちは目を丸くしている。私たちと一緒に案内していただいた職員の方々も同乗する。青函トンネルは、普段の保守、監視は基本的に司令所で一括制御でき無人でよい。見学があるときだけJR北海道の職員の方が準備のために、ここに出勤してくるのだという。本日の最終見学者が私たちのため、今日はこの特急で蟹田まで行き、折り返しで函館に戻るのだという。なんとも大変な通勤経路である。
作業抗で最終点検をし、全員が乗り込んだのを確認して車掌がドアを閉めると、スーパー白鳥号はゆっくりと動き出した。窓の外に先ほど見学した横取り基地が流れていく。地上はもう夕闇に包まれる時間である。

竜飛海底駅を見学

竜飛海底駅の駅名標

日を改めて今度は本州側、竜飛海底駅の見学に出向いた。こちらは吉岡海底駅と異なり、見学しやすいコースになっている。というのは、地上との行き来ができるからである。
竜飛海底駅では斜坑のケーブルカーに見学者を乗せて運行しており、トンネル側、地上側のどちらからも利用することができるようになっている。また、地上には青函トンネル記念館があり、資料館や喫茶コーナー、お土産店などが併設されているので、列車に乗らなくてもトンネル見学が可能なのだ。とは言ってもやはり青函トンネル。列車での見学コースを申し込んで当日を待つ。
青森から白鳥号に乗車して青函トンネルに入り約10分。竜飛海底駅に到着した。こちらでも列車のドアは1カ所しか開かない。やはり車掌さんが手でドアを開けてくれる。駅の構造はほぼ同じで、本抗と平行して作業抗が掘られており、そこが避難施設と展示場になっていた。吉岡海底駅と比較すると、竜飛海底駅の方がカーブの途中に作られていることがよくわかる。ホーム全体がゆるやかに曲がって弓なりになっている。

工事の時に使用された車両が展示されている

説明を受けた後、青函トンネルの解説パネルや工事の様子を示した展示品を見て回る。やはり一大工事であったことがひしひしと伝わってくる。開通後20年が経っているのだが、こうしてきちんと機能していることを考えると本当にすごいトンネルであることが実感できる。
避難所には自動販売機と海底トイレ、そして公衆電話までが設置されていた。避難所の奥に斜坑への隔壁があり、それを開けて地上へのケーブルカー乗り場に移動する。ちょうど地上からは見学者の一行が地下に降りてきたところだ。折り返しのケーブルカーで地上に向かうことにする。

ケーブルカー『もぐら号』

「もぐら号」という名前のついたケーブルカーは非常に小さく20人程度が乗るのがやっとの大きさ。観光用の飾り等はあまりなく、見た目は工事用そのものといった感じである。斜坑はかなり急な傾斜になっているので、ケーブルカーの座席も相当な段差で配置されていた。
ドアが閉まると、がくんと揺れながらケーブルカーは登っていく。ガタン、ゴトン。乗り心地も音も工事用で機能に特化したものである。心地よいという言葉とはほど遠いが、それが逆に見学しているという気分を高揚させた。約9分で地上に到着する。
着いた先はなにやら工場の中のような場所であった。下車してドアをくぐると狭い通路があり、そのまま青函トンネル記念館の館内に入る。青函トンネルでは見学客の数を正確に把握しているので、各人がバッチをつけることが義務化されている。バッチを確認して記念館に入場する。バッチは地上客のものと、鉄道客のもので異なっており、誰がどのケーブルカーに乗車できるのかきちんと管理されていた。

記念館の前からは海が見える

青函トンネル記念館は、竜飛岬の先端部に建設された青函トンネルの博物館である。館内には青函トンネルの詳細な解説が展示されている。展示室の天井には巨大な竜のような青函トンネルの模型があり、トンネル全体がどのような構造になっているかがわかるほか、英仏海峡トンネルとの比較等もパネルで解説されており楽しい。また、お土産店が併設されているので、青函トンネルグッズ等や地元の名産品もここで買うことができる。
記念館の外に出ると、ここが本当に竜飛岬の先端部であり、海底駅が陸と海の境に位置していることがよくわかる。温泉ホテル、駐車場、公園といった様々な観光施設があり、マイカーやタクシー、三厩からのバスも発着する華やいだ雰囲気の中、少し離れた丘の上にはひっそりと青函トンネルの殉職者の慰霊碑が建っている。青函トンネルは安全に慎重に配慮して建設されたが、それでも34名もの殉職者が出てしまった。彼ら一人一人の名前が刻まれた慰霊碑からは、遙か海の向こうに浮かぶ北海道の吉岡を眺めることができる。私もトンネルを利用させてもらった感謝を込めて、静かに手を合わせた。

階段に国道の標識が立っていてここが国道であることがわかる。

竜飛岬の先端にはもうひとつ観光名所があった。通称「階段国道」である。竜飛岬の先端は丘になっており、眼下の海岸に沿って道路が走っているのが見える。丘の上にある駐車場と下の道路の間は約70mの丘陵による高低差があり階段で繋がっている。ところが、その階段がなんと国道なのだ。
国道といっても相当急な階段なので、車は当然通れない。人でも躊躇するくらいだ。どうやら現地をよく確認しないまま、役人が国道と認定してしまったため、そうなったということなのだが、なんとも不思議な場所だ。しかも、逆に人気が出てきて観光客が増えたためか、階段国道の横には、明らかに二番煎じを狙った階段村道なるものまであるのだ。
記念撮影をしながら、国道の方の階段を下まで降りてみる。階段のある場所は青函トンネル建設時代、工事の人たちの住居が集まり村があったところだ。途中には元学校だった建物まである。青函トンネル建設時は、学校を新設するほどの家族がここにいたことになる。事業の規模の大きさに改めてびっくりした。
階段も下の方になると、ごく普通の民家の軒先をかすめていく。お世辞にも道とは言えず、ただの個人宅の庭や家々の隙間を歩いている状態だ。これは国道に認定されたばっかりに、ここの人たちはずいぶん迷惑しているのではないかと思った。なるべく静かに通過する。
下まで降りきると小さな漁港になっており、集落がほんの少しだけある。竜飛岬は青函トンネルの工事をする前は人家が全くなく、道路もない場所だったと言うから、この港も人家も工事の関係でできたのかもしれない。再び階段を登って上に戻る。行きはよいよい帰りは怖いで、登りは大変だ。

ヒラメの養殖場がある

今度は村道の方の階段を登って竜飛岬の灯台に脇へと出る。ここからは津軽海峡と北海道が一望できる。竜飛岬は風の岬。一年を通じて強風が吹き荒れる場所であるが、今日に限っては晴天で風も穏やか。北海道がはっきりと見えた。この下をレールが通って、日夜、人々と物資を運んでいる。つくづくすごいことを計画したものである。
竜飛の丘をぐるりと回って、海岸まで降りていく。途中にある小屋のような建物はヒラメの養殖場だ。ここのヒラメは青函トンネルからくみ上げられた温水を利用して養殖されている。青函トンネルヒラメなのだ。
養殖場の隣にはキャンプ場があり、そこからトンネルの排水が津軽海峡に帰っていく。水は人々に利用され、循環し、自然に帰っていくのだ。環境にも配慮されて設計されているトンネルなのである。
トンネルを見学に来たはずなのに、地上の時間の方が長いのは不思議である。散々歩き疲れて記念館に帰ってくるとケーブルの時間が迫っていた。お土産を買って地下に降りる。帰りは別のコースの人たちとも一緒の電車になった。超満員で到着した白鳥号は、私たち見学者全員を立席で乗せると、一路北海道を目指して出発した。

あじさいの秘密

竜飛岬にあるあじさいは工事の人たちが植えたもの

ところで、現在の竜飛岬は一面のあじさいで覆われている。しかし、このあじさいは最初からここに自生していたものではない。この花は青函トンネルプロジェクトリーダーだった国鉄の粕谷逸男氏が、殺風景だった竜飛と、工事に携わる現場の人たちとその家族を元気づけるために植えたものである。
粕谷氏は青函トンネルの貫通を見ることなく、この世を去っている。私はこのことを、記念館で買った本を帰りの新幹線の中で読んで知った。彼の遺志は結実し、そして今もトンネルとともに海峡を見守っているのだ。かつて何もなかった竜飛岬に、村ができ学校が建ち、そしてトンネルが開通した今、再び人は離れて静かな自然と観光施設だけが残っている。その中で揺れているあじさいの花が妙に印象的だった。

青函トンネルが開通した昭和63年は、その1ヶ月後に瀬戸大橋も開通し、日本列島がひとつに繋がった節目の年でもあった。当時まだ学生だった私だが、ニュースで大きく取り上げられ、JRがキャンペーンをしていたことを思い出す。時代も勢いがあった頃であった。
あれから約20年。私も青函トンネルに助けてもらった。札幌で病に倒れ、いまだに飛行機に乗れない状態の体は、このトンネルがなければ東京に帰ってくることが難しかっただろう。先人たちの偉大な恩恵を受けて、青函トンネルは今日も様々な人を、物を、思いを運び続けている。