ハンガリー・オーストリア・チェコ

2003年10月

Seafood or "KATSUDON"?

眼下に見える町

今回、ヨーロッパへのフライトにはオーストリア航空を利用することになった。オーストリア航空はいいよと、知り合いが薦めてくれたのだが、確かに機内食などが日本向けにアレンジされている点がありがたい。

成田を出て、最初の機内食ではなんと「seafood or "KATSUDON"?」と聞かれた。なるほど、どちらも日本人には抵抗が少ない食べ物だ。おそるおそるKATSUDONの方を頼んでみた。さすがにどんぶりには入っていなかったが、ちゃんとした日本食カツ丼だった。さらに茶そばが付いている。
この後、おやつにはおにぎり(コンビニで売られているようなもの)が出たし、帰りの便では中華料理が夕食で、夜食として「チキンラーメン」まで登場した。チキンラーメンは本当にカップ麺で、まずカップが配られて、客室乗務員がお湯を注いで回るのだ。

日本から約12時間半。狭いシートに座り続けていたので運動したくなって仕方がない頃、ようやく飛行機は徐々に高度を下げ始める。眼下にドナウ川が見えると、音楽の都ウィーンに到着だ。
ここで飛行機を乗り継いでハンガリーの首都ブダペストに向かう。乗り換えたのは小さなジェット機で、まさに飛び上がって降りるだけ。50分ほどでハンガリーに着く。機内で飲み物が出るのだが、ほとんど水平飛行をしないため、まだ飛行機が斜めになっている状態でジュース等が運ばれてきてしまう。

到着後、空港でさっそく現地通貨に換金する。今回訪れる3カ国では、すべて通貨が異なるため、国境を越えるたびにお金を取り替えなければならない。ハンガリーもチェコも近い将来EUに加盟するそうだから、逆に言えば、今がその国独自のお金を使うことができる最後の機会というわけだ。
ハンガリーの通貨は『Ft(フォリント)』。1Ftはだいたい0.4~0.5円程度だ。物価そのものが日本と比べると安く、ハンガリー以外の国では使用できず、円やユーロに戻すのも手間がかかるため、交換は3,000円程度(ホテルやレストランではクレジットカードが利用できるため)にした。
そしてブダペストのホテルへ直行。もう24時間近く起きているので眠たい。部屋に入ってすぐに眠りに落ちた。

躍動感ある彫刻が印象的

ガブリエル像

朝起きると曇り空だった。秋の中欧は気温は涼しく快適だが、天候の変化が激しい。日が差したり曇ったりという、なまやさしい変化ではなく、雨と快晴を2時間ごとに繰り返すような、非常にころころと変わる天気なのである。晴れていても、曇っていても、常に傘を持ち歩いた方がよい。

ブダペストは街の中心部を南北にドナウ川が流れている。これによって、街が東西に分断されており、西側がブダ地区、東側がペスト地区となっている。だからブダペストなのだ。
東西の都市は、観光名所になっている『くさり橋』をはじめとした、何本かの橋によって結ばれている。全体的に西側のブダ地区の方が、王宮や有名な教会等がある山の手の高級住宅地となっており、土地も丘陵地帯となっている。東側のペスト地区は商業の中心地区があったりして、庶民的な雰囲気も漂っている。土地も比較的平坦な地形だ。
ホテルはペスト地区のブダペスト東駅のすぐ近くにあり、窓からはまさにヨーロッパの駅といった雰囲気のホームが何本も見える。まずはペスト地区から観光スタートだ。

最初は英雄広場へと向かう。ここはハンガリーの歴代の王や英雄たちの彫像が並ぶ大きな広場だ。中央には大天使ガブリエルの像がそびえ立っており、その足下にマジャル族の首長アールパードがいる。背後を初代イシュトヴァーン王をはじめとするハンガリーの王や英雄たちが囲む。
これらの特徴は彫像が手に持っている十字架が、普通の十字架ではなく、ダブルクロスと呼ばれる+が2つある十字架であるということだ。

イシュトヴァーン大聖堂

英雄広場の次は、初代王イシュトヴァーンの名前が付いた、聖イシュトヴァーン大聖堂を見学する。ハンガリーの国教をキリスト教徒したのがイシュトヴァーン王ということで、ここの祭壇にはキリストではなく、彼の像が祭られている。さらにキリスト教では、聖人の身体の一部を保存するのが聖なることとされているそうで、王の右手のミイラもいっしょに保管されている。
今回の旅行では、特にこのようにミイラや骨を保存指している教会が多かった。

ここで少々街中を散策。観光に来ると名所を重点的に見てしまうが、ごく普通の街を見てみることも私は好きである。周囲はどの建物の古い石造りで、ヨーロッパに来たという雰囲気を十分に味わえる。石畳の道も多い。
トロリーバスが今でも現役で使われており、ひっきりなしに走っていることを除けば、想像していたよりも元共産圏の国というイメージはない。地下鉄が通っているのだが、これはヨーロッパでは3番目に早く作られたものということだ。
また、特にレストランやお土産物店では、片言でも日本語を話してくれるハンガリー人(マジャル人という表現が本当の言い方らしい)が多いのに驚いた。聞けば、ハンガリー語(マジャル語)は、言語の文法が日本語に近いのだそうだ。「てにをは」が名詞の後に付いたり、名前が姓+名だったりする天などが共通しているらしい。発音も日本人がマジャル語を発音するのは少々難しいのだが、逆にマジャル人が日本語を発音するのはあまり苦にならないらしい。実際、現地の人が話す日本語は大変聞き取りやすい。ヨーロッパの中では難解な言語とされているのだが、はるばる日本から来て共通点があるものを発見すると、なんだかにうれしくなる。

ドナウ川に架かるくさり橋を渡ってブダ地区へと移動する。くさり橋はブダペストで初めてブダ地区とペスト地区を結んだ橋である。イギリス人によって1849年に完成した。日本にもイギリス人が設計した古い橋がいくつか残っている。産業革命当時のイギリス科学力の影響の大きさは本当に大きかったことがわかる。
ブダ王宮やマーチャーシュ教会があるエリアは、小高い丘になっており、城壁に囲まれている。ドナウ川沿いに建つ漁夫の砦からこの丘へと登っていく。
漁夫の砦はブダペスト市内を一望できる景観の良いところだが、建てられたのはつい100年ほど前で、歴史的にそんなに意味があるわけではない。漁夫の砦という名前も、近くに魚市場があるとか、昔砦を守っていたのが漁師だったとか、そういったことからある意味適当に着けたらしい。眺めは良いので、休日ということもあって観光客でごった返していた。

マーチャーシュ教会

漁夫の砦の背後には三位一体広場やマーチャーシュ教会がある。三位一体広場では、今日は吹奏楽の演奏が披露されていた。
歴代の王が戴冠式を行ったというマーチャーシュ教会に入る。中は薄暗いが厳かな空気に包まれていた。ここは、16世紀の初め、オスマン・トルコ軍によって一時期モスクになっていたという珍しい教会だ。いまではきらびやかな祭壇やステンドグラスがあるが、まだまだ一部にモスクの時の名残があるようだ。

教会を出て、丘の上を王宮に向かって進む。周りは観光客が多く、とてもにぎやかだ。お店の数も多い。第2次世界大戦での鉄砲の弾の跡がついた壁などを見ながら王宮に入る。
ここでも、噴水や建物の飾りなど、見事な彫刻が多い。動物や人は、どれもまさに今にも動き出そうかという躍動感があり、彫刻のポーズも活き活きとした動作の瞬間を捉えたものが多い。
王宮は今では美術館などとして利用されているようで、行ったときにはちょうど中国展を開催してた。入口に真っ赤な恐竜もどきのオブジェが置いてあったが、ちょっとミスマッチである。

丘から見えるブダペストの町

王宮見学後はエレベータで一気に丘の麓におり、今度は隣のゲッレールトの丘へと登る。ここからはブダペスト全域が綺麗に見渡せる。公園になっているのだが、観光客目当ての土産物屋も多い。土産物屋でよく売られているもののなかにチェス盤とチェス駒のセットがある。小さなサイズだとお手ごろ価格なのだが、どうしてここにチェス盤があるのかというと・・・。
日本とハンガリーの共通点の2つ目。それは温泉である。ここゲッレールトの丘近くにも、温泉がいくつかある。もっとも温泉といっても、日本の露天風呂とは違い、水着を着て入るスパであるが。水温も低くプール感覚に近い。
実はチェスは、この温泉で使われている。水温の低い温泉に、水着を着て長い時間入るのがヨーロッパのスタイル。温泉に入っている間は暇になるので、湯船(というかプール)に突き出た台でチェスの対戦をするのだ。

満月のナイトクルーズ

TOKAJIワイン

さて、食事の後、午後からは繁華街に出て買い物などにつきあった。ブダペストの銀座は、ヴァーツィ通りと呼ばれる場所でペスト地区にある。デパートや有名ブランドショップも立ち並ぶにぎやかな通りだ。
いろいろと見て回ったが、一般の酒屋で面白いワインを発見。ひとつのワインボトルの中に、ガラス加工で葡萄や馬などが形作られ、白ワインと赤ワインの両方が一緒に入っているのだ。銘柄は『TOKAJI』という有名な貴腐ワインのラベルが付いている。面白いので、白ワインの中に赤ワインの帆船が浮かぶモデルをひとつ購入した。

歩き疲れたので、地下鉄でホテルに戻る。ハンガリーの地下鉄は、駅や売店で切符(片道70円程度)を買って、ホームに行く前にある小さな鳥の巣箱のような機械で日付の刻印を押してから乗車する。改札は一切ないが、切符を持っていなかったり、刻印が押してなかったりすると罰金という、かなり人間を信頼したシステムになっている。
問題は地下に降りるエスカレータだ。私が利用した場所のものが、たまたまそうだったのかもしれないが、エスカレータの速度が異常に速い。日本の標準的なエスカレータの2~3倍の速度で階段がびゅんびゅんと流れている。しかも、1段のステップ幅が結構狭い。まるでアクションゲームのように正確に飛び乗らないと、失敗したら大怪我である。若い内はいいのだが、老人になったらさぞ困るだろう。
走ってきたやや古めかしい電車に乗り込んだ。スムーズに発車するのかと思いきや、この地下鉄、急激に加速して、急激に停止しする。スイッチをオン/オフするといった感じの運転だ。席を探してぼけっと突っ立っていると、急加速するので思わず転びそうになる。見ていると旅行者の私だけでなく、立っていたマジャル人のおばさんもよろけていたし、座っている人もいっせいに傾いていたので、思わず笑ってしまった。

天気はずっと曇ったり晴れたりだったが、夕暮れ時には快晴になり、ホテルからはとても鮮やかな夕暮れが堪能できた。
夕食はハンガリー料理。特徴は前菜に出てくるスープだ。グヤーシュと呼ばれるパプリカを主としたポトフのようなものだ。メインは普通に肉料理になる。パプリカはハンガリーの名産で、スーパーでもどこでも売っている。パプリカ味のポテトチップスまであるのだ。

月夜のくさり橋

夕食後はドナウ川のナイトクルーズに出かけた。街の北の方にマルギット島と呼ばれるドナウ川の中州があり、その近くからブダペスト市内を往復するクルーズ船が出ている。
ウェルカムドリンクをもらって船に乗るとほどなく出航。綺麗にライトアップされたブダペストの街と川沿いの建物が、左右に次々と流れていく。主にライトアップされている建物は、国会議事堂、漁夫の砦、王宮、くさり橋、ゲッレールトの丘、大学といった昼間観光したところだ。
空は快晴で、ちょうど満月が川面に映え、それは幻想的なクルージングを楽しむことができた。

雨に煙るドナウベント

センテンドレの窓

冷たい雨がブダペストを濡らしている。昨日、あんなに綺麗な満月だったのに、今日はしとしと梅雨のような陰鬱な朝になってしまった。
この旅行では、ブダペスト、ウィーン、プラハと各都市に2泊ずつしながら移動していく計画なので、今日はハンガリーからオーストリアに移動するしなければならない。ハンガリー〜ウィーン間は近いので、飛行機で1時間、バスや鉄道でもまっすぐ行けば4時間程度の距離だ。
ハンガリーの田舎で、地元の行楽地としても名が知られた、ドナウベンド地方を経由しながら、オーストリアのウィーンへと向かおう。

ブダペストを出発して、1時間半ほどでセンテンドレという名前の町に着く。
綺麗な色をした屋根の家々が狭い路地に建ち並び、石畳の道を歩くと、小川が流れているという、絵本に出てきそうな風景。私はヨーロッパの田舎特有の、こうした雰囲気が大好きである。いつかはヨーロッパの田舎に住んでみたいと思っている。本当はこういう町に滞在し、絵でも描きながら、数日を過ごすのが良いのだが(以前ポルトガルの田舎でやってみたが今でも心に残っている)。
しかし、あいにく雨が降り続いているので、路地を散策というわけにもいかず、早々に店に入って身体を温めた。軒先では猫がまだ眠たそうにあくびをしている。
この町は様々な芸術を愛するアーティストたちが集まっているという。やはり芸術にはこういうところが良いのだろう。美術館がいくつかあり、そのうち、彫刻家のコヴァーチ・マールギットの美術館を見てみた。なぜか、この雨の中、観光客がひしめいている。しかも、中国の人あり、ヨーロッパ各国の人あり、日本人あり、と人種のるつぼ状態。うーん、まあ、ハンガリーの観光にとっては良いことなのだろうけど・・。

ドナウベントの眺め

次はヴィシェグラードへ。ドナウベンドとは『ドナウ川が曲がっているところ』という意味で、その名の通り、ここでドナウ川は90度曲がっているらしい。しかし、大きな川なので、あるところで一気に曲がっているというよりは、だいたいこのドナウベンド地方で曲がっているという表現が近い。
ヴィシェグラードは、13世紀のペーラ4世の時、丘の上に城が築かれ、14〜15世紀には王宮も置かれた。しかし、現在は川沿いに小さな家々が立ち並ぶ観光地だ。
城が残る高い丘に登ると、ドナウが曲がって流れている様子が見える。城は霧にかすんでいて、幽霊でも出てきそうな様子だ。気温もだいぶ下がってきたので、早速と次のエステルゴムへと移動した。

エステルゴムに到着すると天気は回復。晴天となり、気温も上がってきた。
ここは教会の町。イシュトヴァーンがカトリックの総本山として築いた立派な大聖堂が主張する国境の町である。国境といっても、オーストリアとの国境ではない。大聖堂の後ろを流れるドナウ川の向こうはスロバキア領だ。大聖堂からは、国境の橋とスロバキアの町がよく見て取れた。
教会はとても大きく、巨大な祭壇画が目を引く。聖人の骨もしっかりと見える状態で安置され、宝物庫を見て回ることもできる。教会といっても、ちょっとした宮殿のようなイメージだ。さすが総本山という威厳に満ちた造りであった。

トイレ・クライシス

青い空と畑

寄り道はこれくらいにして、いよいよオーストリアとの国境に向かう。
バスはドナウ川を見ながら3時間ほど走る。一般道路からフリーウェイに入り、ガソリンスタンド(日本で言うPAのような感じ)で休憩をする。ここで売店のトイレに行ったのだが、とんでもないハプニングが発生。トイレの個室に入って用を足している最中に突然全面停電になってしまったのだ。
別に停電なんて外国では珍しくもないのだが、トイレの場所と構造が悪く、個室までのドアが二重になっていたため、一瞬にして真っ暗闇。昼間なのだが、外の光は全く届かない状態になっていたのだ。
冷静に鍵を外して外に出たいのだが本当に何も見えない。汚い話で恐縮だが、その前に目が慣れて紙を見つけないことには、もっと危険な状態だ。さらには水も流したい。停電は全く直る気配がないので、しばらく思案した後、首から提げていたカメラの液晶表示ライトを点灯させ、カメラをくるくると回して、適切な処置を行ってから脱出。
個室を出てもまだ暗闇が続く。可能な限り手も洗っておきたいので、今度はトレイのドアを思い切り蹴り飛ばし、ドアが戻ってくるまでの明かりで蛇口をひねって事なきを得た。
ハンガリーの通貨であるフォリントは、もうこれ以上持っていても仕方がないので、余った小銭で水を買う。今度はPOSレジが停電で動かない。でも店員のお兄ちゃんは適当に小銭を数えて、これでいいよと笑っていた。

気を取り直してバスに戻ると、にわか雨が降り出した。雨はすぐに止み、地平線に虹がかかると、国境の検問所が見えてきた。
EUに加盟しているドイツやフランスの国境と違って、ハンガリー−オーストリア、オーストリア−チェコ間の国境ではきちんと検問がある。運が悪く、検問所にはバスの列ができている。どうやら前方に東欧の国の団体さんがいるようだ。オーストリアはこの地域では一番経済的に豊かな国なので、東欧の人はチェックが厳しいらしい。全員バスから降りてなにやら作業をしている。
結局、国境の通過に約1時間程度かかった。が、日本人はパスポートもチェックしないでほとんどスルーパス。実通過時間5秒程度。こんなに信用されていていいのか複雑な気持ちだが、今後も礼儀正しく、気持ちよく旅行して、日本人の評判を維持したいことは確かだ。

ウィーン郊外の渋滞

オーストリアはユーロの国。鉄道模型コーナーで採り上げているような模型をユーロで購入している私にとっては、金銭感覚のわかりやすい通貨でありがたい。日本から飛行機の直行便もあるし、ユーロなら日本でも当然簡単に手にすることができる。余っても次回使用できるチャンスもある。
国境を越えてまず目につくのは巨大な風車。道路の脇に何本も建っている風車は風力発電のそれだ。
オーストリアでは高速道路のことをアウトバーンと呼ぶ。ドイツと同じだ。しかし、ドイツのアウトバーンと違って、制限速度(普通車100km)があり有料で料金もかかる。料金所はないが、期間内有効のチケットを車のガラスに貼り付ける仕組みだ。

宵闇があたりを包む頃、バスはウィーン市内へと入っていく。縦横に走る高架道路、きらびやかな明かりの灯った建物、渋滞の車やトラムの列、街路を行き交う人々の活気。さすがに都会だ。だが、なんとなく東京と同じような匂いを感じてがっかりした気持ちも隠せない。
ホテルについて部屋に入るが、ボーイの態度もどことなく事務的かつ都会的。良くも悪くも普通の資本主義の都市なのだということを痛感する。

夏の宮殿

シェーンブルン宮殿

ウィーンの市内観光の最初は、シェーンブルン宮殿から。ここはハプスブルク家が夏の離宮として使っていた広大な宮殿である。どのくらい広大かというと、現在は宮殿内に動物園があるくらいの広さ。ハプスブルク家のやることのスケールの大きさがうかがい知れる。
宮殿内はいくつかの見学コースに分かれていて、多くの部屋を時間をかけて回るコースから、比較的短時間でざっくりと見るコースまで3種類ほどから選択できる。
内部も豪華絢爛そのもの。各部屋は贅沢の限りが尽くされ、舞踏会場は少女漫画に出てくるシーンそのもの。そんな部屋が無数にあるので、お腹いっぱいというか、ため息が出てしまう。女性には憧れの宮殿かもしれない。

ウィーンの街路

ウィーンの中心部はリンクと呼ばれる環状道路で囲まれている。1番か2番のトラムに乗ると、このリンクに沿ってウィーンの中心部を一周してくる。市庁舎や国会議事堂、オペラハウスといった主だった建物はリンクの近くに建っているので、トラムに乗ればこうした建物を眺めることもできる。
シュテファン教会を訪れる前に、ちょうど正午になったのでアンカー時計を見物する。この時計は12時ちょうどになると歴史上の人物が音楽に合わせて登場するという仕掛け時計だ。相変わらず、山のように観光客が時計を見上げている。ちなみに仕掛け自体はそんなに凝ったものではない。
シュテファン教会は、ウィーンの中心部にあり、周囲は商業の中心部ということもあって、常に人通りが絶えない。街路では街頭芸人がピエロや死神と天使の格好をして立っていたりする。

午後からはウィーン市をはずれて、郊外のウィーンの森を観光するツアーに参加した。
バスに乗って高速道路を走り、紅葉が美しい森の中へと入っていく。しかし、最初に訪れたのは地底湖ゼーグロッテである。
ウィーン郊外にある地底湖は、昔、石灰を産出した鉱山の跡地だ。天然のものではなく、鉱山を掘っていたら地下水脈を掘り当ててしまい、大量の水が出てきて地底湖になってしまったという。そこを観光用に公開しているのだ。映画『三銃士』のロケ舞台にもなったらしい。
鉱山の中をかなり奥までガイドさんといっしょに歩いていくと地底湖があり、船に乗って観光できるようになっている。地底の水はとても澄んでおり、BGMがかかっていたりライトアップされているので、ムードはとても良い。ただ、なぜか、すれ違う観光客はほぼ全員日本人であった。

地底湖を後にすると、美しい森の中、童話に出て来るような家々が立ち並ぶ風景が広がる。ここはシューベルトゆかりの地で、オーストリアでも別荘地として有名なところらしい。試しに別荘の値段を聞くと「うーん、だいたい1千万円くらいでしょうか」。ずいぶんと安い。将来こうしたところに別荘を買いたくなってしまう。

ハイゲンクロイツ修道院

続いてハイリゲンクロイツ修道院、そしてマイヤーリンクへ。
黄色く紅葉した木々(この地方では赤い紅葉はほとんどない)。ときおり、さっと雨が降り、一瞬で晴れに戻っていく天候。起伏のある丘と森。赤いレンガの建物。本当に綺麗だ。少女漫画のお姫様の世界のような光景が続く。馬で駆け抜けたりしたら、それは素晴らしいことだろう。いつか、きっと。絶対にやってみたい。
マイヤーリンクでは、日本人の観光客(JTBのツアーとのこと)一行が、バスが壊れたとのことで立ち往生していた。たまたま通りかかった私たちのツアーのバスで、彼らを近くのレストランまで送っていくことになった。バスの運転手もこちらのバスと同じマジャル人ということで、助けよう!ということになったらしい。
みんなで壊れたバスを押したりして、ハプニングといえどもなかなか面白い経験をした。バスを移動すると、とたんにお菓子を交換しあったりして、最後は壮大な拍手と共に手を振って見送ってもらった。同じ民族ということでなんだかお互いにほっとしたりするのだろう。

ワイン畑

最後にバスは、ウィーンきっての温泉保養地バーデンの集落を抜けて、広大なワイン畑を過ぎ、再びウィーン市街へと戻る。
今日の夕食は、ウィーンで最古の建築物であるレストランである『ライヘヒェンベルガー・グリッヒェンバイスル』だ。このレストランの基部は2000年前の古代ローマ帝国時代の建物、壁は800年前の市壁最後の残存物とも言われ、入り組んだ構造をしている。注文したメニューは鹿肉のワインソース煮。柔らかい肉だが、多少癖があるので、気になる人は一緒に出されるジャムをつけて食べると良い。

夕食後には、腹ごなしにトラムに乗って、ウィーン中心部のリンクを半周回ってみる。オペラハウスや教会、国会議事堂などがライトアップされており、ブダペスト同様、夜の観光にもってこいだ。
地下鉄でホテルに戻ると、今日一日かなり歩いたせいか疲れがどっと出て、すぐに寝てしまった。

世界遺産チェスキークロムロフ

チェスキークロムロフの町

本日はオーストリアを出国してチェコへと向かう。途中、世界遺産に指定されているチェスキークロムロフの街を見学して、夕方にはプラハに着く予定だ。
オーストリア内はアウトバーンも整備されているので順調に進み、2時間ちょっとで国境の検問所に到着。今度は前回のように甘くはなく、きっちりとしたパスポートチェックがあった。
入国してすぐに再び通貨を変更する。チェコのお金はKc(コルナ)で、1Kcは5円をちょっと切る程度だ。

チェコに入ると道の状況が一転する。オーストリア内はアウトバーンでなくても、舗装された対向車線のある道が国境の町まで続いており、路面状況もいいのだが、チェコ側の国境の町は路地のようになった細い道を何回か右左折して進まなくてはならない。
町を抜けても広い道路に出るわけではなく、山間の細い曲がりくねった道を、チェスキークロムロフまで延々と走り続けることになる。しばらく(2時間程度)は対向車線もなく、本当の一本道。向こう側から車が来ると、両者が譲り合ってやっとすれ違いできるといった状態だ。
目指すチェスキークロムロフが山間にあるので、こういう道になっているのかもしれないが、路面状況もオーストリアほどよくはなく、旧東側であったことを彷彿させる。
ところが、そんな風情も国境近くだけで、チェスキークロムロフに近づくに連れて、道はどんどんと良くなり、開発が進んでいることがわかる。きちんとした観光用道路を走るようになると、じきに目的地に到着した。

チェスキークロムロフ城

チェスキークロムロフは、お城と城下町からなる山間の小さな町だ。日本で言うと高山のようなイメージになるだろうか。昔(中世)ながらの町並みと、それを見下ろすように立つお城が、川を挟んで対向している。この川はこれまでのドナウ川ではなくモルダウ川である。
中世のときは、お城に身分高い人が住み(といっても寒いので夏の間が主だったようだが)、モルダウ川を挟んで、下の町に平民が住んでいたという。このとき、お城の人たちは、自分たちをより絢爛豪華に見せるために、お城をより華麗に見せるだまし絵の装飾を施した。ただの壁が大理石に見えるように模様を描き込んだり、数々の彫像があるかのように絵を描いたりしたのだ。なんのことはない、本当はそこまで裕福ではなかったのだが、平民の町に見栄をはっていたわけだ。
これらの絵は、近くで見ないとわからないほどに、上手に描いてあり、今となっては価値が高いものになっている。
まずは平民の町のレストランで昼食をとる。さすがに世界遺産の観光地だけあって、町並みはRPGなどに登場する中世そのものだが、ほとんどがおみやげ屋さんなどなってしまっている。
レストランも実際に薪をくべた暖炉などがあり、雰囲気はとても良い。そして、ここでも日本語が普通に通じてしまう(食事の注文の範囲でだが)。やはり日本人観光客は多いということか。

町の中には聖ヴィート教会、ローズホテルなどがあり、一通り観光できるようになっている。このチェスキークロムロフの町のすぐ横に、現在の新市街があり、ホテルなども充実しているので、中世の町並みが好きという方は、一度泊まってみるのも良いかもしれない。
道は川を渡ると、チェスキークロムロフ城へと登っていく。
このお城の堀(?)にはなぜか熊がいる。いまもちゃんと飼育されているのだが、動物園のようでちょっとびっくりする。チェスキークロムロフ城自体は、そんなに大きくはないが、高さがあるので、城内に入ると周囲を城壁に囲まれて圧迫感がある。
渡り廊下のような橋があり、ここから町を一望できるのだが、眺めが良く、確かに天下を取ったような気分にはなった。

そしてプラハへ

チェスキークロムロフの熊

チェスキークロムロフに2時間程度いたら、身体が冷えきってしまった。天候が晴れたり、雹が降ったりという秋特有の空模様だったせいもあるが、地理的に北の高地に移動したこともあって、気温は約8度。スープがおいしく感じられる。
さて、ここからは一路プラハへ。首都に近づくにつれて、道はどんどんと良くなる。車線数も増え、建設中のフリーウェイが次々と現れる。チェコはいま、高度成長期と言えるのかもしれない。日本のオリンピック前夜のように活気に溢れて盛り上がっている。

陽がすっかり傾き、美しい夕焼けになった頃、プラハに到着した。赤い屋根をした石造りの家々、石畳の道、トラムが走る市内は、もう見慣れたヨーロッパの都市だが、ブダペスト、ウィーンと比べて、より起伏があり、中世の趣が深いように感じる。
プラハも町が世界遺産に指定されているため、市の中心部(というか観光の中心部)にはバスは入れない。ホテルを拠点として歩いて回るのが良い。
さあ、明日はプラハ観光だ。

プラハ城とカレル橋

プラハ城

朝、目覚めると快晴であった。これでプラハを気持ちよく観光できると思い、朝食をとっていたら、なんと雨が降り出してしまった。しかし、ホテルを出るときには雲間から太陽が。チェコの天気は今まで以上に変わりやすいようだ。

最初はプラハ城からスタートする。前のページでも書いたが、プラハの旧市街はバスなどはほとんど入れない。路地が狭いところも多いし、丘陵地域もあることに加え、世界遺産に指定されているからだと思う。今日一日でかなりの距離を歩くことになるだろう。
プラハ城の入口には衛兵が立っている。比較的若い兵士が交代で担当するのだそうで、観光客と一緒に写真に写ってくれたりする。衛兵というよりも観光モデルのようなイメージだ。交代の時にはイギリスのバッキンガム宮殿ほど壮観ではないが、数人の兵士が足を高く上げて歩いて交代にやってくるのが見られる。

聖ヴィート教会

城内に入り、宮殿の中庭を越えると、最初に目に付くのが聖ヴィート教会。プラハ城自体は9世紀後半にポッジヴォイ公爵によって立てられたのだが、この教会は1344年から建設が始まり、完成したのはなんと1929年。何世紀もの時間をかけて作られたものなのだ。お城の中でも相当目立つ建物になっている。
中には宝物庫があり、歴代の王冠が保管されている。共和国になってからも大統領の任命式はここで行われるということだ。空に突き立つような尖塔が印象深い教会である。

旧王宮を右手に見ながらそのまま道なりに進むと、今度は聖イジー教会というのが見えてくる。こちらは912年に立てられた教会で、聖ヴィート教会よりもかなり小振りだが、王宮内では最も古い建築物だ。
聖イジー教会の左手脇から、黄金小路という路地に入る。小さな家々が並ぶ狭い路地は、16世紀に城の門番を住まわすために作られた。ルドルフ2世の時代には錬金術師が住んでいたこともあるという逸話があり、そこから黄金小路と名付けられたようだ。
立ち並ぶ小さな家は、現在は観光客用のおみやげ物屋さんになっている。しかし、2階に上がると、城壁からの不法侵入者を迎え撃った武器や、戦闘のために矢を放つための穴などの名残を見ることができる。

プラハ市街地

黄金小路を降りると地下牢の跡が残る塔の下に出る。ここから右側にぐるっと回り込むと、少し開けた広場があり、その先がプラハ市街を見渡せる絶好の場所となっている。
ここからは長い階段状の路地を降りていく。おみやげ物を売る露天が多く出ているが、品物はいまいちであった。そのまま市街地を10分ほど進むと、モルダウ川を渡る有名なカレル橋に突き当たる。
50年の歳月をかけて完成したこの橋は、19世紀にはいるまではモルダウ川を渡る唯一の橋だった。橋の左右の欄干には30人以上の聖人像がずらりと並んでいる。
ここはプラハで一番の観光地。スリなどが多く、治安が悪いので気をつけたい。治安と言っても、スリや強盗から、殺人、アメリカのような銃の恐怖、果てはテロまでレベルがいろいろある。プラハではスリが多いらしい。現地の観光ガイドさんの話では、チェコは自由化して世界からたくさんの人が来てくれるようになったが、同時に世界中からスリもやって来た、と言う。

ビールのふるさと

市庁舎の時計

カレル橋を渡ると再び市街地になる。人通りが多い路地を抜けて、旧市街の方向へと歩いていくと旧市街広場に出る。ここは本当に中世の世界。
プラハには11世紀から20世紀までの建築物が、さながら博物館のように立ち並んでいる。様々な様式とスタイルは見ているだけでわくわくする。
広場の中央には旧市庁舎が建っており、エレベータで40Kc支払うと展望台になっている塔に登ることができる。塔からはプラハ市街が360度見渡せる。英雄譚にいかにも登場しそうな形のティーン教会や、先ほど行ったプラハ城などが見えるだろう。
旧市庁舎の壁には、ここでもカラクリ時計がかかっており、毎時0分に死神が現れて砂時計をひっくり返す。そして12人の使徒たちが窓から顔を出した後、最後にてっぺんにいる鶏が『コケーッ!』っと鳴くというもの。ウィーンと違って、ここのカラクリは一瞬で終わるので、広場に詰めかけた人たちも必死に見ている。
広場には数々のお店、カフェ、大道芸人、露天などがあり、様々な国の観光客たちでひしめき合っている。まさに栄える王国といったところか。
このあたりは路地が狭く、車もほとんど入ってこないので、中世に迷い込んだような錯覚を感じながら、ショッピングなどを楽しめるのだ。少し歩くとそのまま新市街やヴァーツラフ広場等へも行ける。

プラハ市内

とりあえずお昼も過ぎたので、食事をしてからショッピングと散策。
まず路地の間に市場が出ているので、ちょっと覗いてみる。食べ物からビーズなどの雑貨品、日用品まで実に豊富なラインナップだ。で、手袋を見つけた私は真っ先に購入。実は本日の気温は約7度。日は差しているのだが、とにかく寒かったのだ。何枚か重ね着はしていたが、手袋があるとないでは大違い。日本でも今年の冬はこれで過ごそう。
チェコの名産と言えばボヘミアガラス。こちらもやたらお店が多いが、あまりに小さなお店で安いものは中国などから輸入している普通のガラスだということ。
それから、もうひとつプラハの名産と言えばビール。チェコは世界のビールのふるさとで、例えば、今では世界的に売れているバドワイザーは、もともとはチェコのビールだ。現在も綴りもそのままでバドワイザーというビールが販売されている(チェコ語読みするので発音は違うらしい)。
こちらではビールをビアマグという陶器の大きなコップで飲む。このビアマグがまた、おみやげとしてたくさん置いてあるのだ。私はひとつ欲しかったので何軒も回ってみた。するとどうも一軒のお店でしか置いていないデザインがあるようだ。カラフルな色づけのビアマグが多い中、それは深い緑色をしており、全面に旧市庁舎のレリーフが立体として飾られている。値段は少々高かったが、思い切って購入することにした。
店主は無造作にビニルでぐるぐると巻いてポンと渡してくれるので、不安になって『明日日本に帰るのだけど、それで飛行機は大丈夫?箱とかないの?』と聞いてみた。もちろんチェコ語は話せないので英語でだが。すると店主曰く『箱よりもこっちの方が絶対安全だよ』と笑って、もう1枚ビニルを余分に巻いてくれた。さらに満面の笑みを浮かべて『日本人か?京都?神戸?』と訪ねてくるので、『そうだよ。東京から』と答えると、『そうか。日本はこの前サッカーのワールドカップがあっただろう!』と親しげに対応してくれる。この国も親日感情は良いのかもしれない。

プラハの街

なお帰国してから判明したのだが、このビアマグはメーカーが1個1個手作りした1万個限定オリジナル品であった。なんと、マグの底の部分に証明書とシリアルナンバーまで入っている。ちなみに私のは2824番目のもの。

その後は一般のスーパーへ出かけた。ペットボトルの水など、これまた一般的なものを購入してから、夕食をかねてビアレストランへ。
やっぱりプラハではビールだろう。黒ビールや普通のビールなどが飲み放題。ドイツ風のソーセージをつまみにジョッキを重ねる。日本のビールよりもアルコール度数が低く、世界に出回っているバドワイザーよりももっと軽い。ほとんどノンアルコールビールに近いと言ってもいいだろう。ひどく酔っぱらうということはない。
外に出ると、陽はすっかり落ちて、国民劇場などがライトアップされていた。

プロペラ機で日本へ

空から見たヨーロッパの大地

翌日。ついに今回の旅も最終日。日本へ向けてプラハ空港へと向かう。
ところがプラハ空港はコンピュータのトラブルで大パニック中。チケットが発券できないので、搭乗手続きはできないし、ようやくウィーンまでのチケットを発券してもらったと思ったら、今度は飛行機がまだ来ていないと言う。この時点ですでに遅延が表示されている。
『ウィーンから先13:00の飛行機に乗るのですが、大丈夫?』と聞くと、『13:00なんてまだ3時間近くもあるじゃない』とフライトアテンダント。いやいや、まだプラハなのだが。ウィーンまでは飛行時間だけで1時間はかかる。

1時間近く遅れてようやく搭乗開始。バスで運ばれた先に待っていたのは、50人乗り程度の小型プロペラ機。国際線でプロペラ機というのは初めてだ。低く飛ぶのかと思ったら、がんばってわりと高いところまで上がって飛んでいた。
結局ウィーンに着いたのは、東京行きの出発時刻の30分前くらい。あわてて搭乗ゲートに行くと、もう誰もいない。みんな乗り終わっている。やっとのことで成田までのチケットを発券してもらって搭乗。当然最後だ。スーツケースがちゃんと載せ替えられているのか心配だったが、結果は大丈夫であった。