ドイツのお爺ちゃん列車チャーター紀行
秋の土曜の朝、群馬県高崎駅の構内には小さな黒い機関車が2台止まっていた。上信電鉄が保有するデキ型電気機関車である。
デキ型電気機関車(通称デキ)は、いまから80年以上も前の大正13年(1924)にドイツからここ上信電鉄にやってきた「お爺ちゃん機関車」である。運転手さんに教えてもらったのだが、実は第一次世界大戦の戦利品として接収したものらしい。このお爺ちゃん機関車は今もこの鉄道に動態保存されており、イベントなどでちゃんと走ることが出来る。今日は祖国ドイツの映画プロダクション会社が撮影を行うので、電車を牽いて終点の下仁田までを往復するのだ。そして、この光栄なことに私もチャーター列車に同乗するのである。
ドイツの撮影チームは、日本の鉄道模型ファン(ドイツの鉄道模型を日本で遊んでいる人という意味である)と鉄道風景というテーマで1ヶ月ほどをかけて日本中を取材する。鉄道模型コーナーからもリンクされているホームページ「メルクリンで遊ぼう(Play with Marklin)」のAkiraさんが、この取材に応じることになり、私たち同好の友人にも声をかけていただき、今回のチャーター運行が実現することとなった。
高崎駅を降りて上信電鉄の本社に向かう。今日10月14日は鉄道の日であるから、全国で鉄道関係のイベントが開催されている。狙ったわけではないが、たまたまそういう日に運行されることになったのは喜ばしい。湘南新宿ラインで高崎までくる間にも、EF55をはじめとしてJRが企画した様々なイベント列車とすれ違った。多くの企画列車と異なり、このデキ列車は、走行するシーンを撮影するためのチャーターであるから、当日まで関係者以外には運行スケジュールは極秘事項として計画されてきた。取材班とAkiraさんは、走行する列車を「外から」撮影するため、列車内の連絡/まとめ役は私が担当することになった。鉄道に乗ることは多々あっても、こういう極めて特殊な列車に同乗できるというのは本当に感激だ。
上信電鉄は高崎から下仁田まで33.7Kmを約1時間かけて走るローカル私鉄である。普段は2両編成の電車が走っているが、デキ列車は時刻表には載っていない列車なので、この日のために決められたダイヤに従って、片道を約2時間ほどかけてゆっくりと走っていく。
高崎駅の引込線を出た列車は、家々の軒先をかすめながら新幹線の高架と併走していく。デキの走りは思ったよりもしっかりとしており力強い。佐野信号所を過ぎると、大きく右にカーブして烏川を渡る。ここから先はのどかな田園風景の中を走っていく。ちょうど稲がたわわに実った時期で、刈り取り直前の田んぼが広がる日本の原風景が車窓に展開される。今日はあいにくの曇天だったが、それでも山々と田んぼの色合いが調和して見事だ。
10時過ぎに山名駅に到着。列車行き違いのためにはじめての停車である。デキ列車は臨時便なので途中の駅には一切停まらない。また行き違いで停まる駅でもドアは開かない。そういう意味では終点までノンストップの超特急なのだ。ただし、各駅停車よりも時間がかかる超特急ではあるが。やがて反対側の列車がやってきて、再び発車する。
列車内では風景を見たり、デキ機関車の力走を見たり、電車の運転席に座って見たりと、長いように考えられる時間も全く退屈しない。みな思い思いに過ごしている。しばらくするとAkiraさんから携帯電話に連絡があり走行位置の確認をする。また、この先の鉄橋で撮影するので顔を出したり、手を振ったりしないようにと指示がある。撮影が目的なので、顔を出したり手を振ったりしても良い区間と、だめな区間があり、そういったことをやりとりしながら進んでいくのである。ちなみに車内にもひとりだけカメラマンの方が同乗しており、車内の様子も同時に撮影しながら進んでいく。
製紙工場で有名な富岡を過ぎると、沿線には秋祭りの賑わいが増してくる。本日は下仁田諏訪神社の秋祭りがある他、明日の日曜日にもいくつかの祭りがあり、御輿やはっぴ姿の子供たちが見受けられる。カメラはこうした日本の文化も逃さずきっちりと収録していく。南蛇井(なんじゃい)という変わった名前の駅を通過すると、周囲に山が迫り峡谷が現れる。谷に沿って左右にカーブを切ると、ほどなく終点下仁田である。
ところで、上信電鉄は地元に愛されている鉄道だと思う。スタッフの方はみな親切で地元に溶け込んでいるように感じた。また、デキ列車が珍しいということもあるかもしれないが、沿線で見かけた多くの人が楽しそうに電車に向かって手を振ってくれるのだ。それも老若男女様々な人がいる。赤ちゃんを抱いた親子、自転車に乗った小学生や中学生、部活に行く途中の高校生、人家の庭先で体操をしているお爺ちゃん、縁側を掃除するおばあちゃん、お祭りに参加する人々、駅員さんまで、みんな笑顔で手を振ってくれる。こちらも振り返すと子供たちはムキになってぶんぶん振り回したりするので面白い。ここには新幹線や特急列車が忘れた旅情がある。風景だけでなく、良き日本の文化がある。ドイツの取材にも自信を持って紹介できる日本である。下仁田駅には「ネギとこんにゃくと人情の町」という看板があった。キャッチコピーに嘘はない。
下仁田では1時間ほどの休憩時間がある。この間にデキ機関車を列車の後方(折り返しの先頭)へと付け替える、機回しという作業を行う。蒸気機関車や客車列車の時代にはいつも行われていたことだが、電車がほとんどの今日ではめったに見ることができない作業である。下仁田駅も普段は電車しか来ないので、線路はホームの先で行き止まりになってしまっている。そのため、いったん列車全体をバックさせて本線に戻し、ポイントを切り替えてデキだけを切り離して引込線に退避させ、その後電車をホームに戻してから、またデキを本線に戻して、ホームに入れて電車に連結するという、とても手間のかかることをしなければならない。運転手さんたちは大変だが、我々は入れ替え風景が見られるので嬉々として写真を撮ったりしていた。
無事機回しが済んだので、駅前の食堂でお昼を食べる。定食には名物のこんにゃくと近くの牧場の牛乳を利用したソフトクリームが付いていた。定食のおかずも、このおまけも本格的でとてもおいしかった。
腹ごしらえも済むと折り返しである。帰りは行きよりもさらに時間をかけて進んでいく。吉井駅で停車するが、ここではホームではなく引込線に入って停車する。行き違いの電車だけでなく、後続の電車にも追い抜かれるためだ。停車時間が30分あるので、車掌さんの案内に従って引込線の線路に降りて、周辺を散策してみた。この駅はわりと大きな駅で駅員さんがいる。待合室には何名かのお客さんもいて、田舎の和んだ光景が見られた。長い休憩の後、再び走り出したデキは順調に高崎に向かって走っていく。朝は曇っていた空もここにきて晴れ間が見え始め、秋の日差しが黒い車体を照らし出した。
午後3時前、終着の高崎駅構内引込線に到着。デキはそのまま車庫の一番奥に戻っていった。お爺ちゃん機関車、今日一日走ってくれて本当にお疲れ様。こんな素晴らしい機会を与えてくれた上信電鉄の皆様、Akiraさん、参加者のみなさんに、心から感謝したい。