2013年は瀬戸大橋開業25周年
瀬戸大橋は本州と四国を結んでいる橋のうち、岡山県の児島と香川県の坂出を繋ぐルートに架かっている、全部で10個の橋の総称である。
瀬戸大橋という名前は有名だが、実際に『瀬戸大橋』という名前の橋が実在するわけではない。瀬戸内海には島が多く、岡山県から香川県までは、飛び石のように並んでいるいくつかの島と島の間に橋が架かっている。島から島へと渡りながら瀬戸内海を横断のだ。
児島-坂出間のルートではその橋の数が10個で、それらをまとめた名前が『瀬戸大橋』である。
※10個のうち「瀬戸大橋」の名が付く橋は3個ある。
瀬戸大橋が開通したのは、1988年の4月10日。
1988年は昭和63年で、この約1ヶ月前の3月には青函トンネルが開通したばかり。瀬戸大橋の開通によって、本州、九州、四国、北海道が繋がった劇的な年である。昭和は次の64年の年明け7日に終わってしまうので、まさに昭和最後の一大イベントだった。
一方でJRは国鉄から民営化されて、まだ1年。
青函トンネルとこの瀬戸大橋によって、すべての鉄道会社がレールで結ばれることになったことから『レールが結ぶ、一本列島。』というキャッチコピーでキャンペーンが行なわれ、多くの新しい列車が登場した。
青函トンネルの方は、北斗星、はまなすという寝台列車が華やかだったが、瀬戸大橋の方は四国内の特急であったしおかぜ、南風が、共に岡山始発になった。寝台特急は東京発宇野行きだった瀬戸が、高松行きに変更された。
現在では寝台特急は消滅寸前になっているが、瀬戸がいまもサンライズ瀬戸として健在で走っているのは、実際に便利な時間帯に設定されていることもあり、健闘しているなと思う。
その開通から2013年で25年が経過した。
瀬戸大橋によって本州と四国が繋がるというのは、当時はかなりセンセーショナルだったし、すごい時代になったという実感もあった。
当時の日本はバブル景気のまっただ中で、今から思えばきらびやかで勢いがあった。私自身もちょうど中学校から高校へと進学するタイミングだったので、青函トンネルと瀬戸大橋が次々に開通したことは、確かに明るくて先進的な未来を実感させてくれるものであった。
そう考えるとあっと言う間の25年間だ。
バブル景気がはじけて『失われた20年』などと言われているが、そんなことを言われると、私の世代は大学から就職して現在までが全部『失われて』しまっていることになり、複雑な気持ちになる。実際にはそういうのは一部のお金持ちの人の話であって、日本はその間にもずっと頑張ってきたのだと思う。
この25年間の間に私は何回も瀬戸大橋を渡って四国に行ったが、開通前の小学校5年生の時に宇高連絡船を使って初めて上陸した四国と比較すると、様々な点で飛躍的に発展していると感じている。
その瀬戸大橋に歩いて登ることができることを知った。
瀬戸大橋は本州と四国を結ぶ橋の中では、唯一鉄道と道路の両方が通っている橋である。二階建て構造になっており、上の階を高速道が、下の階を鉄道(JR瀬戸大橋線)が通過しているが、橋自体の保守管理は本四高速という道路の会社が、鉄道部分も含めて担当している。
この本四高速という会社では、瀬戸大橋に登って見学をするツアーを、不定期で開催しているのである。
2013年は開業25周年という節目の年であったため、ツアーは本四高速だけでなく、JR四国主催でも募集されていた。
ただし、狭い橋の上に登るということで、1回あたりの参加人数が少数であることと、開催日が相当限られている。立地も東京からは距離があるためダメ元で応募したのだが、無事に当選したので、経路途中の大阪に住んでいる友人を誘って参加することにした。
瀬戸大橋の登頂見学には他のツアーにはない厳しい条件が付加されている。
服装や持ち物制限、長いはしごを登れることなどの行動面の条件は良いとして、一番難しいのは気象条件だ。
瀬戸大橋は何もない海の真ん中を横断している上、橋を支えている柱はとても高いため、危険を伴う雨天ではだめで、晴れていても橋の上空の風速が秒速10m以下でないと中止になってしまう。
予備日や予備時間もないため、当日は一発勝負。天候条件が満たされなければ、全くの無駄足だ。
しかし、青函トンネルも見学したので、やはり瀬戸大橋も見てみたい!という気持ちでとにかくチャレンジすることにした。